読み進めては休み、読み進めては休み で、ゆるゆる読んでいた本がありまして、半分まで読み終えたところで昨日、喫茶店にこもって一気に最後まで読み終えました。
フロムという人の「愛するということ」
本の後半になるにつれて内容が面白くなっていき、twitterに書き出しながら読みました。文章にマーカーを引く感覚に近い。
現代人は自分を商品化してしまった。自分が生命力を使うことを投資とみなし、自分の地位や人間の市場の状況を考慮しながら、その投資によって最大限の利益をあげようと必死になっている。 pic.twitter.com/wGVmFmHhyP
— はち (@putsbee) December 28, 2022
現代人の最大の目標は、自分の技能や知力を、そして自分自身を、つまり「人格のパッケージ」を、できるだけ高い値段で売ることである。相手もまた、公平で有利な交換をしようと血眼になっている。 pic.twitter.com/akq34ed0yv
— はち (@putsbee) December 28, 2022
現代において「神とともに歩みなさい」という言葉が意味するのは、愛と正義と真理において神とひとつになりなさいということではなく、神をビジネス・パートナーにしなさいということだ。 pic.twitter.com/gmYYQHoMvu
— はち (@putsbee) December 28, 2022
くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も避けたほうがいい。そういう連中は、会話らしい会話はせず、くだらないおしゃべりばかりして、自分の頭で考えようとせず、どこかで聞いたような意見を口にする。 pic.twitter.com/X0gJxxEl4U
— はち (@putsbee) December 28, 2022
(中略)教師はたんなる知識の伝達者ではないし、知識の伝達が教師のおもな役目ではない。教師のつとめは、人間としてのあるべき姿を伝えることだ。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
現代の資本主義社会では、いやソ連[現在のロシア]の共産主義社会においても、高い精神性をそなえた人間が賞賛され模倣されることはまずない。みんなから賞賛を浴びるのは、人びとから見られる立場にいる人たちだ。(中略)彼らは一般大衆に、身代わりの満足感を与える。 pic.twitter.com/0TQc67c9WY
— はち (@putsbee) December 28, 2022
精神を病んだ人はおしなべて、客観的にものを見る能力が極端に欠如している。正気を失った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分のなかにある、欲望と恐怖がつくりあげた現実である。 pic.twitter.com/KRSBQ24ShI
— はち (@putsbee) December 28, 2022
正気を失った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし私たちはみんな多かれ少なかれ正気を失っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、誰も世界を客観的に見ることはできない。 pic.twitter.com/3C1i7zA4I9
— はち (@putsbee) December 28, 2022
根拠のない信念は、ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからというだけの理由で、何かを真理として受け入れることだ。それにたいして、理にかなった信念とは、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。 pic.twitter.com/HLopcjFDMQ
— はち (@putsbee) December 28, 2022
自分のなかに自己がしっかりあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その他人にほめられるかどうかに左右されることになってしまう。 pic.twitter.com/l9yQOhCE7u
— はち (@putsbee) December 28, 2022
「大人が望ましいと思うことを子どもに吹きこみ、望ましくないと思うことを禁止すれば、子どもは正しく成長するだろう」という思いこみにもとづいている。ロボットにたいして信念をもつ必要はない。ロボットには生命がないのだから。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
根拠のない信念は、圧倒的に強くて全知全能のように感じられる権力に服従し、自分の力を放棄することによって支えられている。いっぽう、理にかなった信念は、それとは反対の経験にもとづいている。 pic.twitter.com/yfnIEoxUXk
— はち (@putsbee) December 28, 2022
理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きるということだ。したがって、他人を支配するという意味での力、つまり権力を信じたり用いたりすることは、信念とは正反対のことである。 pic.twitter.com/xIu5ZjKHJW
— はち (@putsbee) December 28, 2022
多くの人にとっては、権力はこのうえなく現実的なものであるかのように思われるかもしれないが、人類の歴史を振り返ってみればわかるように、人間のなしとげたもののなかで、権力ほど不安定なものはない。 pic.twitter.com/me6zYYrShb
— はち (@putsbee) December 28, 2022
安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持てない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全をはかろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
愛は能動である。人を愛するとき、私は愛する人にたいしてつねに能動的にかかわるが、その人だけにかかわるわけではない。 pic.twitter.com/2OPYflKNBj
— はち (@putsbee) December 28, 2022
(中略)愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
既存の社会の枠組みのなかで商売をし、行動をしながら、愛の習練を積むことなど、はたしてできるのだろうか。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
愛と「ふつうの」生活とは絶対に両立しないという主張は、抽象的な意味では正しい。たしかに資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。 pic.twitter.com/C7uRm17XaV
— はち (@putsbee) December 28, 2022
(中略)次のような結論にいきつくはずだ。すなわち、愛が、きわめて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。 pic.twitter.com/qA7XL0kSeR
— はち (@putsbee) December 28, 2022
人を愛せるようになるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。経済という機構に奉仕するのではなく、経済機構が人間に奉仕しなければならない。
— はち (@putsbee) December 28, 2022
— はち (@putsbee) December 28, 2022